January 09, 2006

日本人の甘えの構造と英語によるコミュニケーション

もう25年前の話しであるが、私が米国に留学して最初に一番驚いたのは大学のカフェテリアでサンドウィッチを注文した時だ。
「とてもおいしいので是非食べてみて下さい。」とオリエンテーションで勧められたのでカフェテリアに行って早速注文した。当時の日本でサンドウィッチと言えば、ハムサンド、玉子サンドや野菜サンドなど種類が決まっていて既に調理されたものがパックされたものであり、同じような物を想像していた。

しかし、サンドウィッチセクションに行って、サンドウィッチが欲しいと言うと、いきなり
1)Which would you like for bread? White, rye or whole wheat?
とパンの種類を聞かれて、戸惑ってしまった。

サンドウィッチの材料がすべて取り揃えてあり、注文に応じて特製のサンドウィッチをその場で調理してくれる仕組みだったのだ。

サンドウィッチのパンといえば、それ用に薄くスライスされ耳が除かれた白い食パンしか知らなかったので、White, rye or whole wheat?と聞かれてもrye(ライ麦パン)は聞いただけで食べたことがなく、whole wheat全粒パンにいたっては聞いたこともなかったので、取り敢えずWhite, please. と答えた。

その後も、
2)パンには何を塗りますか?(マヨネーズ、マスタード、マーガリン)
3)野菜は何を挟みますか?(レタス、オニオン、トマト、ピーマン)
4)野菜につけるドレッシングは?(バジルマヨネーズ、チリトマトソース、シーザードレッシング、ハニーマスタード、サウザンアイランド、オイル、ビネガー、ソルト、ペッパー)
5)メインに何を挟みますか?(ハム、ツナ、ターキーブレスト、エッグ、ローストチキン、ローストビーフ、ベーコン)
6)他に何かトッピングしますか?(スタンダードチーズ、チェダーチーズ、クリームチーズ、ピクルス、オリーブ)

サンドウィッチが出来上がるまで6個も質問されたのだ。ろくにパンの種類もわからなかったので、あとはしどろもどろで聞き取れた物を調理師に伝えることが精一杯だった。汗ダクで、心臓はドキドキ、足はガクガク、疲労感と自分の無知への嫌悪感から食欲は一気に失せて、食べたサンドウィッチの味は全然覚えていない。適当に注文したので美味しくなかった事だけは確かである。

「こんなにたいへんな思いをして注文するくらいなら、既に出来上がった日本のサンドウィッチの方が楽でいいや」と苦々しく思った。

これは本で読んで知ったことだが、レベルはまったく異なるが私と同じような経験を著名な心理学者の河合隼雄氏がアメリカに留学中にしたそうだ。

河合氏はサンドウィッチではなく、ある家庭で模様されたパーティで着くや否やホストから「飲物は何がいいですか?」と尋ねられたそうだ。ホストと河合氏の会話はこうだ。

「飲物は何になさいますか?ビール、ワイン、ウイスキーがあります。ソフトドリンクもいろいろ用意していますので、好きなお飲物を召し上がって下さいね。」

「ウイスキーを戴きます。」

「スコッチにしますかそれともバーボン、モルトもありますよ。」

「スコッチをお願いします。」

「水割り、ロック、ストレート、それともソーダ割りにしますか?」

「水割りにしていただけますか。」

河合氏はホストの質問にちょっとうんざりして、「そんなに丁寧に尋ねるよりも何でもいいから、ただ飲物を出してくれたほうがリラックスできて嬉しかったのに」と思ったそうだ。

有名な日本人論「甘えの構造」の著者で精神科医の土居健郎氏によると、私や河合氏がうんざりした原因は一般の日本人が国民性として持っている他人への依存(甘え)にあるそうだ。

確かに日本人の国民性も少しずつ変化してきているが、土居氏の分析は次のとおりだ。

アメリカ的なお客のもてなし方の極意は、一人ひとりのお客様の個人的な希望や欲求を出来るだけ詳しく聞いて、それを充足してあげることにある。だからこそたくさんの質問をせざるを得ないのである。

これに対して、日本的なお客様のおもてなしは、どんな食べ物や飲み物であろうと、選んだり希望を述べさせるという責任を出来るだけお客様に負担させずにホストが気遣うものである。

日本人の客として、河合氏や私はホストに気遣ってもらうこと、ちやほやされること、つまり「ホストに甘える」ということを期待してしまったのである。

相手に甘えるという行為は日本人の日常的なコミュニケーションにおいても無意識に行われている。

若い夫婦は別であろうが、日本人の典型的な熟年夫婦(夫が働き、妻が家事を担う)の会話で、

夫は帰ってくるなり、「風呂にする」と言い、着替えて風呂に入る。風呂から出るといつも通り(言わなくとも)冷えたビールが食卓に出され、ビールを飲み終わったタイミングで、(何もいわなくとも)妻がご飯を出す。更に夫が夕食をほぼ食べ終わるタイミングでお茶が出される。

これはあまりにもステレオタイプな古典的日本人夫婦であるかも知れないが、少なくとも私の父と母は上記のような日常を送っていた。

昼間、家族のために一所懸命に働いて疲れているであろう夫を妻は気遣い、帰宅する時間を見計らって風呂を焚き、季節やその日の気温に応じて夫の一番好む冷たさになるように冷蔵庫にビールを入れて、夕食の準備を整えて夫の帰宅を待つ。夫が「風呂の前に飯にする」と言われてもよいように風呂と夕食を同時に準備しておくのである。

このような古典的な日本人夫婦間において、夫は完全に妻に「甘えて」いる。「風呂を沸かしてくれ」「ビールを出してくれ」「ご飯をよそって持ってきてくれ」「お茶を注いでくれ」などと一切言わなくとも、妻が夫の欲求を察して充足してくれる。

何も言わなくとも自分の欲求を相手が察して何でもやってくれるのだ。言葉に出して言わなくとも自分の真意を相手が察して理解してくれる。これが日本人の「甘え」なのであろう。

「甘える」と聞くと、子供が親に甘えることを想像する人が多いと思うが、子供が母親に甘えて何でも、言わなくても母親が自分の世話を焼いてくれる心理と、上記のように大人が他の大人に対して「甘える」という心理は限りなく近いものだと私は思っている。それだからこそ、土居健郎氏は「日本人の甘えの構造」とあえて「甘え」という表現を使ったのであろうことは想像に難くない。

私には今年8歳になる娘と10歳になる息子がいるので、子供達と母親の関係を観察してきた。子供が母親に「甘え」ている間は親は子供の面倒をせっせとみるが、ある時期が来てもっと自立してほしいと思えば、いままでやってあげていたことを敢えてやらずに子供に自分でやることを促す。最初、子供達は母親に甘えて自分で出来る事も母親に「やってやって」とせがむが、自分でできることを母親がもうやってくれないと自覚すると自分でやるしかないので自分でやるようになる。そうこうしているうちに子供達は母親から心理的にも行動的にも徐々に自立してゆく。そのうち、母親が自分のために用意した洋服が気に入らなければ自分で気に入った服をタンスから引っ張り出してきたり、出された食事で自分が食べたいものだけ食べて、食べたくないものは残すし、自分が食べたいものが冷蔵庫に入っていることを知っていれば自分で取り出してそれを食べるようになる。

ある意味、お互いに相手の気持ちを察して大人がお互いに甘えあえる日本社会は素晴らしいと思う。しかし、外国人に日本人と同じように甘えられると考えるのはよくないことだ。

米国人女性と結婚した日本人の夫に対して「夫は自分を愛していると思って結婚したにもかかわらず、夫は自分のことを愛しているといってくれないので確信がもてなくなった」という不満で心理カウンセリングを受けたという話しはよくあることだ。夫の言い分として、「自分は妻のことは心から愛しているが、それを言葉でどう表現してよいのかわからないし、結婚した後も愛しているよと口に出して言うことは照れくさいしあまりしたくない。愛していることは口に出さなくとも普段の行動から十分に妻に伝わっているはずだと思っていた。」と言うはずである。

これも、「言葉に出さずとも自分の気持ちを相手が察してくれてしかるべきだ」という、妻に対する夫の一種の「甘え」と解釈することができよう。

再び私の留学中の経験だが、私は日本人留学生としてシアトルの米国人家庭にホームスティしていたことがある。ある日、隣人のお客さん(弁護士)の男性をディナーに招いて家族と一緒に食事をしていた。ホストファーザーが私をその人に「日本人からの留学生だ」と紹介してくれたので、
Nice to meet you. My name is Toshikazu Ichimura. I come from Tokyo and I'm majoring in linguistics at Seattle University.
と自己紹介すると、その人はいきなり、
Oh, really? What kind of linguistics do you study? What made you decide to study linguistics at Seattle University? What is a major issue in Japan? Cars? (日本では今何が問題になっているのですか?自動車ですか?)などと立て続けに質問してきた。私は質問に上手く答えられずに赤面してしまったことを憶えている。特に最後の質問には、Yes, probably.(はい。多分そう思います。)としか答えられなかった。当時は日米間で自動車の輸出に関して激しい貿易摩擦が起こっていた最中だったので、日本人としての私の意見を聞きたかったのであろう。
「初対面なのだからもう少し簡単に答えられる質問をしてくれてもいいのに」と自分の不甲斐なさを棚に上げて心の中で叫んでいた。少なくとも私に対して興味を示し、いろいろと質問してくれたにもかかわらずである。

パーティなどで初めて会った英語圏の人との英語でのコミュニケーションの中でこのようにいろいろと質問されて上手く答えられずにちょっとうんざりした経験をお持ちの読者も少なくないと思う。特に日本人は自分の意見や出張をハッキリとダイレクトに、しかし攻撃的でない方法で述べることが苦手とされている。私は学生時代に英語ディベートを散々やったので、どうも自分の主張を述べるときに攻撃的になってしまう。

以上述べてきたように、時として日本人の国民性、日本式コミュニケーション方法が英語によるコミュニケーションの障害物となり得る。

特に、相手に言わなくてもわかって欲しいという「察しの文化」に根ざした「甘え」や、「遠慮」「控えめ」を美徳として自己表現をしないことは、英語でのコミュニケーションにおいては何の役にも立たない。

英語でのコミュニケーションにおいては、逆に自分の好き嫌いをはっきりさせて、自分の希望や欲求をきちんと表現し、自分の意見や主張を明確にしたほうが上手く行く。

私がこの記事で主張しているのは、「英語圏の意思疎通文化の方が日本のそれよりも優れているので、皆さん見習いましょう。」ということでは決してない。
英語でのコミュニケーションの時には英語文化の意思疎通方法を取った方がよりスムーズなコミュニケーションが可能だということだ。

話しをしている相手や場面状況に応じて、話し方を変えたり言葉を選んだり、どこまで踏み込んで自分の意見を主張するかなど、上手な使い分けが出来れば良いのである。

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January 01, 2006

アニメ映画「あらしのよるに」で英会話を学ぶ意義を考える

アニメ「あらしのよるに」を小学生の子供と見てきた。絵本作家、木村祐一氏のロングセラーの絵本が原作で、TBSテレビの「テレビ絵本」が好評を博して、ついにアニメ映画で公開された。子供の絵本が原作なので常識を超えたファンタジーである。人間で言えば10代の若者であろう山羊の「メイ」と狼の「ガブ」が嵐の夜に暗闇の山小屋で出会い、自分たちの群れ(狼=食うもの、羊=食われるもの)を裏切ってまでその友情を貫き通そうとする。

私は何故「狼」と「羊」という敵対関係がある物たちが友情で結ばれるに至ったかに興味があった。英語教育のブログを書いている私の解釈はこうだ。明るい昼間に2匹が出会っていたならば、言葉を交わす前に間違いなく羊は狼の餌食となっていたであろう。しかし2匹は相手の姿かたちが見えない暗闇で出合って、(子供の絵本なので日本語で)言葉を交わした。激しい雨に打たれ恐ろしい雷を逃れて辿りついた小屋で同じ境遇のものに会えば、ちょっと安心して心を許して会話するはずである。しかも気が合えば話しは弾む。話しが弾めば友情だって芽生えるかもしれない。お互いに相手が誰であるかがわからなくとも、究極それが敵味方であろうとも共通言語でのコミュニケーションの力は絶大である。所詮は子供の絵本のファンタジーで、現実にそんなことはあり得ないと思われる人も多いかと思うが、最初の出会いの場面で私は別な映画の1シーンを思い出した。

実在のピアニスト、シュピルマンの実体験を綴った回想録を基に、戦火を奇跡的に生き延びたピアニストとその生還に関わった人々の姿を描いた映画「戦場のピアニスト」(自身もゲットーで過ごした過酷な体験を持つロマン・ポランスキー監督作品)である。収容所を脱走した主人公のユダヤ人ピアニストが戦火の中逃惑い、終戦間近のある夜に逃げ込んだ空家でドイツ人将校と鉢合せしてしまう。ドイツ人将校は即刻銃殺することもできたが、将校はユダヤ人にいくつか質問し、シュピルマンがプロのピアニストであったことを聞き出す。そして将校はユダヤ人にその家にたまたまあったピアノを弾かせた。その演奏にとても感動したドイツ人将校はシュピルマンを匿う、しかも十分な食料と自分のコートまで与える。感動的なピアノ演奏という強烈な要因があったが2人の間に友情が芽生えたことは間違いなさそうである。もしも2人にドイツ語という共通言語が存在しなければシュピルマンはピアニストであることを打ち明ける前に銃殺されていたかもしれない。

上記2つの例は類い稀なケースであるが、一般論として異文化および異境遇な人間の間にコミュニケーションできるだけの共通言語が存在すればお互いのことを理解し合え、気が合いさえすれば友好関係を築くことができるのではあるまいか。

先日、コソボ紛争におけるセルビア系住民に対するアルバニア系住民の迫害の過去を乗り越えて個人レベルで友情関係を育んでいる人々がいることをテレビのドキュメンタリーで見た。やはり友好関係の第一歩は言葉による対話であった。

日本の歴史教科書問題、小泉首相の靖国参拝、領土問題でギクシャクした関係が続いている日中、日韓関係。反日運動のニュースをテレビや新聞で見聞きしてとても残念に思っているのは私だけではなかろう。

私には個人的に中国人と韓国人の友人が数名いるが、英語以外の外国語ができないので、いつも英語で意思疎通している。彼らとは少なくとも英語を媒介として、個人レベルではあるが相互理解し、交友関係を維持できている。

英語をコミュニケーションの道具として学ぶ意義のひとつは、まさに異文化間での相互理解と交友関係にあると、子供と「あらしのよるに」を見て強く感じた。

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